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NHKの番組が、都市再生のヒントに

1985年(昭和60)、夏以降の景気後退に加え、9月のプラザ合意後の円高進行、鉄鋼の輸出規制などにより、世の中のバブル経済とは相反して、北九州市は全体的に沈滞ムードが漂っていた。NHK北九州放送局は1985年11月から、北九州を考える番組、北九州活性化への提言「あすを語ろう」の放送を始める。その中で、野村総研研究所の宮川氏が、北九州市を励ます意味で「かつては、鉄の都、煙の街として有名だったピッツバーグが、ハイテク産業、教育産業を中心とした総合文化都市へ様変わりし、“全米で一番住みやすい街”になった。やれば出来る例だ」と語った。

都市再生の道をピッツバーグに探る

若き経済人の力で北九州を生まれ変わらせたいと考えていた第34代中野理事長は、「もしかするとピッツバーグにヒントがあるかもしれない」と直感し、野村総合研究所の宮川氏を通じ、同研究所の村上主任研究員とかつてピッツバーグ大学に留学していた早稲田大学の寄本勝美を北九州JCに招き、この年に設置した地域活性化促進会議を中心に議論を重ねた。同年9月に、中野理事長を団長とする北九州JCを主体にしたピッツバーグ視察調査団を結成し、“住みやすく働きやすい街”を、実際にでかけて見ることにした。

都市再生を果たしたACCD

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視察団が目にしたのは、煙りの街やすさんだ街の面影ではなく、美しく、しかも活気のある街並だった。アメリカ・ペンシルベニア州西部のピッツバーグは、かつては米国屈指の重化学都市であったが、大戦後には発展性のない最低ランクの都市という評価を受けるまで、都市としての魅力と活気を失っていた。しかし、第二次世界大戦後、産・官・学・民が一体となって「ルネッサンス1」と呼ばれるプロジェクトによって、古い建物を壊して中高層のオフィスビルを建てたり、州立記念公園や自動車専用道路を建設して、都市機能の整備を図った。また、1977年頃から、「ルネッサンス2」のプロジェクトを推進。ダウンタウンの再開発や住宅の改良を含めた住環境整備と、高度な最先端の技術を必要とするハイテク関連を中心とする産業へのシフトを図っていった。ピッツバーグは輝きを取り戻し、1985年には、地図の大手出版社の地域評価では、全米329の都市中“住みやすい街”の第一位になった。この都市再生の牽引役を務めたのが、経済界、市民団体、学者からなる市民組織・アレゲニー地域開発協議会(ACCD)である。行政に頼るのではなく、街を愛する市民が、誇りをもって行動し、街を変えていったことが、ピッツバーグ再生のキーポイントだった。

大盛況だったピッツバーグ視察調査団帰朝報告会

ピッツバーグ視察団は帰国して、10月に「ピッツバーグ視察調査団帰朝報告会」を開いた。会場には、企業や商工会議所などの財界関係者、市職員、北九州JCOB及びメンバーなど、約500人がつめかけた。