紫川をきれいに(history:1968)
誰もが望み誰もが出来なかった試みを
「紫川浄化運動」を提案
かつて紫川には、ゴミが投げ捨てられ、悪臭ただよう川だった。その状態を見たら誰もが、個人の力では、とうていきれいにできるとは思わなかっただろう。1968年(昭和43)、北九州JCの社会開発委員長となった伊藤次郎氏は、砂津川とその上流の神嶽川が合流している紫川をきれいにする「紫川浄化運動」を提案した。実施計画を発表すると、マスコミも大きな関心を示し、各新聞紙上にこの計画が報じられた。JCの運動から市民運動へと発展
紫川河畔にて第16代亀井理事長
亀井福岡県知事・谷北九州市長 |
大幅に減少した、川へのゴミの投げ捨て
大看板の設置、市民へのパレード参加を呼びかけるチラシの配布など紫川の浄化を呼びかけるダイナミックなキャンペーンを実施。その一方で、伊藤委員長を先頭に社会開発委員は紫川流域住民へのゴミ清掃を呼びかけた。町内をとりしきる“親分格”のおじさんや無法松のような大将も、「よし分かった」と協力をしてくれた。また、ゴミを決まった収集所に出すことを守ってくれるようになってきた。市民の間に協力の輪が拡大
これ等のキャンぺーンや巡回しながら協力を呼びかける運動の効果は、徐々に現れてきて、一般市民の間でも自主的に川をきれいにしようという気運が高まってきた。小倉北区室町の各町内を皮切りに、紫川沿岸各町内へ協力要請の行脚を行った。初行脚には、亀井理事長、伊藤委員長らがたすきがけ、携帯マイク持参で参加した。浄化運動は、全市の河川を対象に
北九州JCでは、1969年(昭和44)、「市内の河川の浄化をすすめよう」のスローガンを掲げ、「紫川浄化運動」を、延命寺川や板櫃川、大蔵川など市内の河川を対象にするということで「川をきれいにする運動」に名称を変更した。
北九州JC、この運動がきっかけとなって社会から認知
紫川で始まった川の浄化運動は、北九州全市の川をきれいにする運動へと広がり、さらにゴミ清掃の遅れた地域での回収のスピードアップ、都市下水道網の整備、不法建築の撤去など、環境の改善や整備にも影響を与えた。この北九州JCの活動は、九州各地に大きな波紋を投げかけ、川の美化、街の浄化などの運動を通じて、JCの地域社会に奉仕するという理念が、深く静かに浸透していくことになる。
1959 小倉祗園太鼓像 | 1970 児童交換事業 |