象誘致の要請を正式に受ける
北九州市で唯一の動物園である「いとうづ遊園(現:到津の森公園)」で、28年間、子どもたちから高い人気を集め愛されていた、メスのインド象のタイ子が1978年(昭和53)7月5日に息をひきとった。タイ子の死後、死を悼む手紙や電報が次々と寄せられ、献花も絶えることがなかった。いとうづ遊園としては、タイ子の後任を早く見つけたいと考えたものの、タイ国からの象の輸入は、昭和50年からの自然保護を謳ったワシントン条約によって閉ざされていた。そこで当時の森友忠生園長は民間の外交ルートに望みを託し、谷伍平市長を通じて、正式に北九州JCに象誘致の要請を行った。
エレファントクラブを結成
1978年7月、要請を受けた北九州JCは特別プロジェクトチーム「エレファントクラブ」を、第25代小野理事長をチームリーダーにして結成。スリランカのウェラワッタJCを通じて、北九州JC主催によるスリランカフェアの開催や物産展、児童絵展などを実施するなど、象誘致のためのさまざまな努力が実り、10月にスリランカ大使から「北九州市民のスリランカ国に対しての友好、親善の取り組みに感謝して、象の贈与を認める」という吉報がもたらされた。
公式訪問団、スリランカに出発
スリランカを訪れた北九州JC訪問団
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1978年12月、第26代吉永理事長を団長に、公式訪問団が、象の贈与に対しての御礼と確認書の受け取りのために、スリランカに向けて出発した。到着後、親象からはぐれてしまった生後8ヶ月から8歳くらいまでの子象が保護されている象の孤児院を訪問。訪問の目的について告げると、担当事務官に「象の贈与の件については何も知らされていない、何かの間違えではないか」と言われ、訪問団全員、茫然自失の状態に陥った。
紆余曲折の結果、象の贈与が決定
後にJCI会頭となられるイスファニー・サミーン氏に全てを託し、あらゆる交渉の窓口となっていただいた。サミーン氏の努力により、象の輸出を認めてなかったスリランカから、2頭の子象を北九州市に誘致することができた。いかにスリランカから象を輸入することが難しいかは、1978年時点で過去10年間、象の輸出を禁止しており、アメリカのカーター大統領の令嬢に1頭プレゼントしたことのほかに例外を認めていないということからも、うかがい知ることができる。
大歓迎、2頭の子象が到着
1979年3月22日、コロンボを2頭の子象を乗せた飛行機が出発。23日、福岡に到着。25日に、いとうづ遊園象舎前にて贈呈式が執り行われた。新聞を通じて、2頭の子象の愛称を募り、応募総数1966通の中から、「サリー」と「ラン」に決定した。5月5日のこどもの日に、発表及び表彰式、そしてスケッチ大会を開催した。また、シンボルマーク入りのTシャツを作成し、5,000枚を販売し、50万円を学用品の購入資金とし、スリランカの児童に学用品をプレゼントした。