2022年 日本青年会議所 会頭大分青年会議所 第71代 理事長北九州青年会議所 第71代 理事長49東京に長くいて、大分に帰って友達もいませんでしたし、仕事のつながりもなかったのでJCに入って友達できたらいいなと、自分の為だけに入ったようなところはあります。上田君 よく言いますよね。「入り口は自分のためでも出口は人のため」というJCの入会してから卒業するまでのプロセスをこのような表現をする方もいらっしゃいますけど、まさにそういったJCライフを過ごされたのですね。中島先輩 まさにそういう形でしたね。上田君 その後。入会してよかったなと何か思い出すことはなにかありますか?中島先輩 最初はやっぱり飲み友達がたくさんできて、すっごいそれが嬉しくて楽しくて、妻にもお許しを頂きながら、少しずつ飲みに一緒に会食をする機会が増えてきました。それがまず最初に良かったなって思ったことです。それは自分のためで友達ができるということだけにフォーカスをしていたんですけど、その「楽しい」がJCに入って良かったにかわったのは、2012年の日田の豪雨災害で私が人生で初めて復旧復興活動というものをさせて頂いた時です。私、本当に行きたくなくて怪我したくないし、田舎ではありますけど、田舎の中の都会っ子なんで汚れるの嫌だしトラックで行くってなって、それも嫌だなと思っていたんですけど、実際行ってみて、多くのメンバーが一生懸命やってる中に巻き込まれて無我夢中でやって、最後にその被災をされた方から涙を流しながらお礼を伝えられたんです。その時に一日振り返ったらすごい恥ずかしくなってきて、最初行きたくないとか汚れたくないとか、そんなつまんないことを考えていたのに、実際にやらせてもらえたら、こんなにも学びがあって、誰かの役に立てる喜びみたいなものをこの組織はくれるんだなって思い、あー入会してよかったかもぐらいは当時思いました。上田君 以前そのお話を伺ったとき、まさにあの我々がやっていることはその希望を与えることなんだっていう考えに■り着いたルーツのお話だったんです。やっぱりあの僕らがやってる事っていうのは、誰かの希望にならないと意味ないというか、誰かの希望になるからこそやってることだと思うので、その話を聞いて、目の前のご老人が「ありがとう」って言ってくれるような活動を私はメンバーにしていただきたいなと思っております。中島先輩 そもそも北九州青年会議所のみなさんが、今から70年前に豪雨災害が九州で多くあって、そこに大分も参加をさせていただいて、やっぱり街にJCって必要だねっていうところから始まってますから、私が復旧復興活動に参加させていただいた時の自分の人の役に立ったという胸の高まりみたいなもの70周年記念対談ー����年はなんといっても会頭という職を全うされて大変おつかれさまでした。会頭として過ごされた一年間、コロナ禍というのもあったと思いますけど、一年を振り返ってどのような一年でしたか?中島先輩 まずは北九州青年会議所の皆さんが大分青年会議所を作ってくださったおかげで、めぐりめぐって、70年後にこのような大きな挑戦する機会をいただけたというところに本当に感謝しています。5月にコロナがある程度収まってきて、リーダーとしてみんなにコロナ後の世界を私なりにお見せしたいと言う気持ちがあり、無理を言って台湾に行ってきました。そのあたりから世界の潮流も変わってきたなというふうには思っています。また昨年2月にはロシアがウクライナに侵攻し、戦後が戦時中になってしまった中でJCにできることは何なのかを模索する機会をいただいた一年だったように思います。上田君 特にヨーロッパ会議でのご経験をお話しいただいた際、私も涙が出るほど素晴らしい光景を想像させていただきました。侵攻中であったにもかかわらず、JCの民間外交というものが起きたという話を聞いてもすごく感動しました。それがJCの力なんだなというふうに感じさせていただきました。中島先輩 理事長までされると、好奇心がすごいと思うんですよね。実際に自分がそこに行ってみたいとか、実際に会ってみたいとか話してみたいなどの気持ちが強いので、理事長に挑戦されてるのだと思います。私も全く同じで、行って自分の目で確かめてみたいと思います。ウクライナの方にもロシアの方にも会って、直接自分の言葉で話してみたいという、その動機はなんなのかなと思ったら、一番は好奇心なんじゃないかなと思います。JCは好奇心に正直であっていいのではないかと思います。ーJCに入会したきっかけはなんですか?上田君 入会した際の気持ちや想いはなんですか?中島先輩 父が昔JCメンバーでした。北九州青年会議所が誇る彌登大先輩に父も私もさまざまにご指導いただいていましたが、父もそういった指導の中で、最終の年度に日本青年会議所で国際委員長として出向していました。父の世界を股にかけて、そして何より自分の大分という町を愛して、一生懸命仲間と共に運動を起こして、父の背中を幼いころから観ていました。社会人になって大分に帰って父からそろそろJCどうだと聞かれて、私も父の背中を見てたもんですから、ごく自然に入会をしました。中島 土上田 信晃
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