対談⑥ 松本 零士 氏

日本青年会議所 JC jc jc ライトダウン わっしょい

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松尾
松本先生の北九州市にまつわるエピソードですとか、外から見た北九州の良いところや悪いところ、また今と昔とどう違うか。そういったお話を聞かせて頂きたいと思います。

松本
私は久留米生まれの小倉育ちですが、意地でも男たるもの泣き言は言えなかったですね。これは子どもの頃からの刷り込みになっていて、基本中の基本なのです。男子たるもの弱音は吐けない。九州男児としてのプライドです。馬鹿にされたり、故郷に帰れと言われたりしても『今に見ておけ、必ず見返してやるぞ』そういった志を持っておりました。また、時には私の故郷を「田舎」と言う人がいましたが、「田舎」と言われると腹が立ちます。八幡製鐵所があるでしょ。重工業地帯というのが刷り込みとしてあるわけです。ですから「田舎」などと言われると憤然としましてね。当時まだ18歳の若僧でしたが相手が年上や目上でも、僕の故郷は「田舎」ではないと主張しておりました。

松尾
私は八幡なのですが、今でも父親は官営八幡製鉄所の影響で「鉄は国家なり」の考え方を持っています。その関連工場が多かった戸畑の方もそうでしょう。また昔、小倉には陸軍造兵廠がありましたし、門司は明治政府から特別輸出港として指定された港町として発展してきました。若松は石炭の積み出し港として、筑豊炭田の石炭を日本各地に送り出して国家の近代化を支えてきた。結局、自分たちが国益のために働いているのだという気概を誰もが持っていたので、確かに「田舎」と言われると何ぞやという気持ちを持つのはわかりますし、我々もそういう意識を潜在的に持っていると感じることはあります。

松本
小倉は都市としてかなり栄えていましたので本屋さんが多かったですし、映画館も多かったですよね。アメリカの進駐軍の施設が近くにあって音楽にしても何にしても欧米文化が回りに溢れていた。「田舎」どころか九州における文化の入口のような場所でした。同じ漫画家の石ノ森章太郎君(物故)なんかは2~3時間かけて映画を見に行っていたそうです。ですから何をするにしても事欠かなかったですよ。小倉で育ったお陰で、私にとっての事前の土台が出来上がりました。そして何より多くのひとに支えられ、今の私があると思っております。

松尾
さらに北九州は、主要新聞社の西部本社が全て揃っていたので、西日本における文化集積地点でもあった。そのあたりも先生にとっては良い環境だったのでしょうね。

松本
高校1年生の時に雑誌で入選しまして、それをきっかけに毎日新聞社西部本社に行って、飛び飛びではありましたが、連載をさせて頂いておりました。高校在学中でしたから学費は全て自分で稼いでいましたよ。そして修学旅行で東京に行った際、出版社に立ち寄ったあと、皇居の二重橋の袂にある柳の木だったと思うのですが、その木を叩いて『僕は必ずここへ戻ってくる』と誓いを立てて帰ってきました。

松尾
その後、実際に上京することになるのですね。松本先生は今年漫画家活動50周年を迎えられたとお聞きしておりますが、小倉から上京した時のお話や先生の作品の誕生秘話などを是非教えて頂けませんでしょうか。

松本
昭和31年10月(当時18歳)に小倉から上京しました。当時は小倉駅から東京まで24時間。在来線で17時半に小倉駅を出て、翌日大阪の手前で夜が明けて、そして夕方の17時半に東京に着きました。
計24時間かけての長旅でしたが、これが後々役に立ちました。というのは夜、瀬戸内海に面して走るのですが、海側つまり進行方向の右側に座るので、夜空がちょうど星の海を走っているような感じでした。そういうイメージと、また当時18歳で思春期でしたから、絶世の美女が対面の窓際にじっと座っているようなのを想像したりして、様々な妄想や空想を描いて、結局そういったことが私にとっての旅立ちの時のイメージとなり「銀河鉄道999」へとつながりました。ですから「銀河鉄道999」は自分自身のあの時の旅立ちなのです。

松尾
なるほど、だからあの作品では全て右側に座っているのですね。まさに小倉駅から旅立ったそのイメージが「銀河鉄道999」になっているわけですね。

松本
何といっても24時間でしょ。さらに切符を買って、所持金の残りが700円だったのですが、これはもう行ったら帰れない。だったら、これは資格の有無を問わず、『切符さえ買えば、あとは宇宙をひと飛びで行けたらいいな』などということを考えたわけです。『そういう時代が来たらいいのに』それがイメージとなり、「銀河鉄道999」を描いた際、車両も客車まで描かないと気が済まないわけですよ。迎え合わせの4人席でね。

松尾
あの作品が小倉駅からのイメージから生まれたというのは、北九州市民として非常に嬉しいことですし、誇りに思います。しかし全く知りませんでした。

松本
実は小倉を舞台に描いた単行本で「宇宙作戦第一号」というのが、私にとっては最初の単行本です。
19××年、大原子力都市として発展しつつあった北九州という設定で、高層ビルやモノレールを描いたりしておりました。ただその当時の原子力という言い方は要するに憧れのエネルギー、そして未知のエネルギー。放射線の問題などとはまた別の問題で、次元の違う話です。

松尾
その当時から既にモノレールを描いておられたのですね。今まさに現実となりましたよね。ただ、憧れのエネルギーであるはずの原子力が破壊兵器として使われることになったのは非常に悲しいことです。

松本
同級生の友人で、父親が救援部隊として広島に入り被爆した明くる日、放射線を浴びた障害で亡くなられたり、そういった方が周りには沢山居ました。本当に切ない時代でした。ただそうした時代でも、小倉祇園太鼓の時だけは19時までに帰宅しなさいと令が出るのですが、誰も帰らないですよね。「ヤッサヤレヤレ」と太鼓を叩いてるでしょ。私の町内は太鼓が無かったですが、それでも祭りに行って大騒ぎして、楽しかったですね。小倉は本当に良かった。

松尾
そういえば、北九州ではちょうど1週間前が小倉祇園太鼓で街中に太鼓の音が響いていました。

松本
ああそうですか。今でもやはり「ヤッサヤレヤレ」と太鼓を叩いて山車を引っ張り回すのですか?

松尾
はい。我々北九州JCのメンバーも結構町内に入って叩いていますよ。

松本
そういう話を聞くとまた故郷に帰りたくなりますね。これからもまだまだ頑張ります。あなた方もその若い力で頑張って下さい。若者には「時間」という最大の宝物があります。ご活躍を楽しみにしております。

松尾
漫画家活動50周年おめでとうございます。これから更にご活躍され、日本の漫画界を盛り上げて頂きたいと思います。本日は貴重なお時間を頂き、誠にありがとうございました。

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