1953年、40数名でスタート
小倉青年会議所が発足したのは、戦後まもない1953年(昭和28年)の7月2日。メンバーは40数名だった。発足にいたるまでは、当時、商工会議所の事務局長であった阿部正男氏のひとかたならない尽力と「無名会」という北九州を考える会の方々による協力があった。
五市合併を見据えた名称「北九州五市青年会議所」
当初「北九州五市青年会議所」での登録を要請したものの、まだ五市合併以前の当時としては、1都市1LOMの原則に反するため、やむを得ず小倉青年会議所の名称で発足した。しかし現実には、小倉市だけでなく八幡市や戸畑市、門司市のメンバーも多数所属しているという特異な状況や、近い将来五市が合併する可能性が高いことなどを説明し、同年11月「北九州五市青年会議所」の名称が認証された。
奉仕の精神で大水害の援助活動を展開
メンバーによる援助物資運搬
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小倉青年会議所の1953年(昭和28年)のスローガンは、「北九州にJCを!修練・奉仕・友情」だった。発足した昭和28年の6月に九州全域を大水害が襲った。25日から断続的に降り出した集中豪雨に紫川は氾濫。濁流が小倉市内に流れ込んだ。特に、小倉市と門司市の被害が大きく、両市で157人という戦後最悪の犠牲者が出た。また、学校や公共施設には、たくさんの被災者が逃げ込んでいた。小倉青年会議所は奉仕活動の第一歩として、被害地区での援助活動と防疫活動にメンバー全員で取り組んだ。特にこの時、小倉薬品から調達したカルキで行った防疫作業などの活動や菓子パンの配給によって、小倉青年会議所の存在と役割、そして精神が広く認知されることとなった。また、日田で起こった水害に、メンバーが直ちに出かけて防疫作業を行っている。
活動を支えたのはメンバーの熱い情熱
毎月の例会は赤レンガの旧小倉商工会議所の2階の事務所で開催した。設立当初は、財政的に厳しく、応接間は無料、電話代は免除、事務局の分だけ払うというかたちでサポートをいただいていた。この時代好不況波が交互に訪れるためメンバーの入れ替わりも激しかった。メンバー間の結束を図る目的として、下関との対抗野球など楽しいレクレーション企画も催した。このようなアットホームで手作り的なJCの活動を支えていたのは創立メンバー全員がもっていた、新しい道を自分達で切り拓こうという熱い情熱と行動力だったといえる。
今に引き継がれている創立当初の精神
小倉青年会議所の設立総会並びに発足会は小倉玉屋で開かれた。初代理事長には蔵内正臣氏が就任した。ここで掲げられたスローガン「北九州にJCを! 修練・奉仕・友情」には前向きに行動することの意義と支えあう心の大切さが込められており、現在の北九州JCの活動にもそのポリシーは脈々と息づいている。