小倉祗園太鼓像(history:1959)

街のシンボルを市民と一緒につくろう

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存続の危機解消のために生まれたアイデア
現在、小倉駅前のペディストリアン・デッキにある鉢巻き、たすき姿のブロンズ像が、ここは「無法松の地、小倉だ」と、駅を行き交う人に訴えているように見 える。祗園太鼓像のアイデアが出た背景には、1959年(昭和34年)北九州五市青年会議所が分裂し、小倉青年会議所だけが残ったことにある。このままで は、先細りになってしまうという危機感がでて、5周年事業として何かをして、求心力を高めようという意見が出された。

スローガンは、小倉駅前に祗園太鼓像を建立しよう
最初のアイデアは、「小倉駅にベンチ、またはごみ箱を寄贈して、JCのPR活動をしていこう」というものだったが、それらはすでに駅に設置されていたた め、「JCらしさが出て、ずっと残るものを」と会議を重ねた。そして菊池氏から出されたアイデアが、「郷土愛に満ちた祗園太鼓を打つ子供の銅像」だった。 メンバー全員が、このアイデアにもろ手をうって賛同。祗園太鼓の建立運動が決定したのである。スローガンは、「小倉駅前に祗園太鼓像を建立しよう」となっ た。

一気に加速、実現のための活動。
決定した翌日には、そのアイデアをもって山田小倉駅長と面談。了解をいただいた翌日には、西日本新聞にこのプランが紹介されている。3月12日には、林小 倉市長に会って、祗園太鼓像の建立の協力を要請。このすばやい行動力は、JC存続への危機意識が強かったことの現れといえるだろう。

各委員会も精力的に動き、うねりが市全体に
像の基礎台に入れられた町名を墨書きした石
像の基礎台に入れられた町名を墨書きした石
祝典委員会は、市役所、商工会議所、友好諸団体、JC関係者など、約150余名に案内状を発送した。建設委員会は駅前の準備に取り組んだ。また、広報委員 会は、市の観光課と企画を練り上げる中で、像建立事業のPRと小石集めの運動を実施することを決定。実現に向けて、市内を駆け回った。この小石の企画と は、直径5cmの小石に各町名を墨書きし、像の基礎台に入れるというもので、“石”が“意思”に通じ、“意志”に変わるという願いが込められている。

大きな自信となった祇園太鼓建立運動
7月6日、四つに分けて持ち込まれた銅像を、台の上に乗せる作業に入った。7月7日、祗園太鼓像の据付工事は、無事完了。7月9日、華々しく除幕式が執り 行われた。躍動感あふれる姿を見ていると「ドンコドンコ」と鳴る太鼓の響きが、聞こえているような感じがするという感想が数多く寄せられた。

もっと市民の目に触れる場所へ、移設事業
1998年、JR小倉駅のリニューアルに伴い、祗園太鼓像は日の当たらない、人通りの少ない場所に移されてしまった。2001年、北九州JCは、小倉祗園 太鼓移設事業に着手し、「北九州のシンボルとして復活させることが必要ではないか」と提言し、2002年の最重要事業のひとつとして、また、北九州 JC50周年事業のひとつとして位置づけ、小倉祗園太鼓移設事業を展開した。2002年10月12日に、JR小倉駅2階ペディストリアン・デッキへと移設 事業を無事に完了させた。
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