ASPAC'92(history:1992)
台本のないドラマとしてのコンベンション
「ASPAC'92」の開催地、北九州市に決定
北九州JCがASPAC北九州開催の誘致運動をはじめたのは、1988年(昭和63年)からで、1989年には、「アスパック室」を設け、体制整備を図っ
た。数年間に渡っての熱心な誘致活動が認められ、1990年5月、タイのチェンマイで'92年度のアスパック開催地が北九州市に決定した。アジア・ヒューマン・ルネッサンス運動を提唱
開会式 |
感動を共有、笑顔だけで分かり合えた
「アジア民族芸能祭」が開かれた総合体育館では、フィナーレの午後9時を過ぎても誰も帰ろうとせず、さまざまな民族衣装をまとった出演者と観客たちが一緒
になって踊り始めた。国や人種といった壁を乗り越えて、笑顔でいっぱいの人たちが熱気で渦巻いていた。まさに“アジア・ヒューマン・ルネッサンス”を実感
する風景だった。自己研鑽の場として最高の舞台
ASPAC'92開催にあたって、主管としての準備、そして開催日のお世話のために、北九州JCは、第40代後藤理事長率いる組織と、富澤実行委員長率い
るASPAC実行委員会の、二重の組織をフル活用し、全メンバー日夜を問わず駆け回った。事業を担当した組織名を上げると、「行政官公庁特別委員会」「総
務委員会」「財務委員会」「国内渉外PR室」「国際渉外PR室」「ウエルカム委員会」「メンバーシップ委員会」「プログラム策定委員会」「環境委員会」
「文化委員会」などがある。これらの組織でJCIとの連携やPR活動など多岐にわたっての事業を行った。この他にも、縁の下から支える組織として、「事務
局」「広報特別委員会」「企画調整委員会」などがあった。メンバーの多くは、初めて経験し、取り組むことが大半であり、緊張と不安を感じながらも、何事に
も体当たりでぶつかって行こうの精神で、与えられた役割を着実に果たしていった。ASPAC'92の開催を主管することで、北九州JCの名は、日本国内だ
けでなくアジア各国に広く轟いたであろう。また北九州市のイメージアップに貢献でき、さまざまな人や文化が交流するASPAC'92という大舞台は、北九
州JCメンバーにとって最高の自己研鑽の場になった。